EKAKINOKI

プーシキン作『ボリース・ゴドゥノーフ』の背景

Boris Fyodorovich Godunov, 1551-1615

これ、プーシキンの作品にしてはめずらしく、ちょっとストーリーがわかりにくい。というか・・歴史的な事実関係にすこしアタマがコンフュージョン。

プーシキンの劇詩・物語詩 プーシキンの劇詩・物語詩

バンダルチュク監督の映画『ボリース・ゴドゥノーフ(1986年)』 / オペラのシーンより

そうしたら、あとがきに書いてあるじゃないですかー。プーシキンは、この作品を書きあげると、試読をたのんだ友人にこう言ったというのです。「キミ、カラムジンの『ロシア帝国史第10巻』を通読してくれたまえ。」

なんでーなんでー、、そんなのありか〜?!そこでみなさんには、ここでごくカンタンに予備知識をさずけてあげます。というか、3つほど予備知識をおぎなえばコト足りるということが、ようやくわかりました。

ひとつ目は・・・ロマノフ王朝(1613-1917)とそれに先だつリューリク王朝(-1598:イワン雷帝など)のあいだに、15年間ほどの動乱期がロシアにはあったということ。それでなくてもこの15年間は、飢饉、ペスト、火事とさんざんだったみたいです。

1965年版「ゴドゥノフ」・・イラストはキブリク

ふたつ目は、リューリク王朝の正統な継承者であったドミトリー皇子が殺されリューリク王朝が断絶したあと、殺されたドミトリー皇子を名乗る、歴史的に正体不明のふたりの男が、偽ドミトリー1世、偽ドミトリー2世として自称皇帝(教会の認証を受けていないので正式な皇帝ではない)になったということ。そして3つ目は、そのうしろにポーランドがいて、たえずロシアをチクッていたということ。

ボリース・ゴドゥノーフは、リューリク家とは血がつながっていない親族で、リューリク家が途絶えたあと皇帝に推挙されて、2度は断わったもののけっきょく皇帝になりました(在位:1598-1605)。ゴドゥノーフは有能な治世者だったと歴史家は注釈しますが、リューリク家の正統な跡取りだったディミトリー皇子の実質的な殺害だったという歴史的な噂もあり、「すべて計算ずくだった」というひともいます。(プーシキンもこのセンでストーリーを構成しています。)

正統な皇位継承者であるはずのドミトリー皇子を称する者がモスクワに攻めあがってくると聞けば、かりにそれが素性の知れぬ者であったとしても(脱走修道僧と言われる)、ボリース・ゴドゥノーフは心穏やかではなかったとおもいます。そしてじっさいに、ボリース・ゴドゥノーフはトツゼンのように死に、この皇子僭称者が皇帝になってしまうのです。射殺されたロマノフ家皇女を自称した女性がいましたが(ロシア革命後のはなし)、「殺された※※皇子はじつはアタシ」という僭称はロシアの伝統?

もっと傑作なのは・・・・・殺害されたほんもののドミトリー1世の母親は追放されていたのですが、皇帝になった偽ドミトリー1世が恩赦を与え『母子再会』が実現したとか、そののちあえなく偽ドミトリー1世が倒れると、その妻、つまり皇后は、偽ドミトリー1世とはべつのドミトリー皇子僭称者である偽ドミトリー2世の元にやってきて『夫婦再会』を果たすとか、、、もうムッチャクチャ。ニンゲンはどこまで政治的になれるかのよい例?

それとポーランド!ポーランドというと3国分割とか、ショパンの悲愴的なメロディーとか、大国にいじめられた姿ばかりをイメージしてしまいますが、何度かモスクワまで攻め込むといういじめっ子役も、じつは歴史的にキチンとやっているのです。ポーランド国王ジギスムント万歳!

ここまでは、プーシキンの劇詩『ボリース・ゴドゥノーフ』についてではなくて、ほとんどじっさいにあったはなしです。ところでこんどは『ボリース・ゴドゥノーフ』から引用・・・

「モスクワで皇帝になろう」じゃと!ひっ捕えよ。その涜神者をひっ捕えて、ソロヴェツキイ修道院に送致して終身の懺悔につかせよ。

(引用おわり)

ソロヴェツキイというのは、寒いロシアの、またさらにとんでもない北の果てにある修道院で、現在、ユネスコの世界文化遺産になっています。劇詩『ボリース・ゴドゥノーフ』には、このような名所旧跡が今日的にボコボコ登場するので、それもおもろ。

(2003.11.14.)

* カラムジンの『ロシア帝国史』には、一冊にまとまった要約版(ロシア語)があります。
* プーシキンの劇詩『ボリース・ゴドゥノーフ』は、プーシキン全集3/河出書房新社。

かんれんサイト

ロシア王朝交替期の動乱についての詳しい説明
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/medi..

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