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ヌレーエフ自伝

Rudolf Nureyev 1938-93

Rudolf Nureyev1961年6月、ヌレーエフはフランスに亡命した(キーロフバレエ団ヨーロッパ公演の際)。「最初から計画していた亡命ではなかった。」とヌレーエフは言う。なりゆきだ。なりゆきで亡命するか?する。当時のソ連人ならそれはあった。

ヌレーエフが亡命をしたのは、公演のために移動している最中だった。亡命を決めたのは、このままモスクワに帰れば二度と海外に出してもらえないばかりか一生浮かばれない人生を送ることになるだろうと、周囲の状況から察しがついたからにほかならない。

べつにヌレーエフが特別なことをした、というわけではない。もちろん仕事のことでふだんからはっきりとじぶんの意見を言うヌレーエフは、体制のワク組みが厳格なソ連では要注意人物とみなされていただろう。でも23歳の好奇心いっぱいの若者が海外に出て、自由時間に街をほっつき歩こうが美術館にひとりで行こうが、ロシア人以外の人間と気軽に話そうが、あたりまえと言えばあたりまえだ。

ところがそれがあたりまえでなかったソ連政府は気に入らなかった。最後の公演先であるロンドンに飛びたつ寸前のパリ・ブルジュ空港で、団長がヌレーエフに囁く。「キミだけはいますぐモスクワに帰るように。」・・・もはや、決断するしかなかっただろう。ヌレーエフはそっと身を引き、柱の陰に隠れた。

ヌレーエフが亡命してから1年して、英国の『オブザーヴァー紙』に『ヌレーエフ自伝』が4回にわたって掲載された。この記事の抜粋訳が、『ヌレエフ(J・パーシヴァル著/小倉重夫・森下洋子編/東京音楽社/1981年):右上画像』の後半部分にある。とてもおもしろい。

ヨーロッパのバレエが、ヌレーエフにはひじょうにクラシックなものに見えたというくだり:

『ところで、イギリス人は、古典作品に対しては人一倍保守的になるようである。イギリス人が「ボリショイ劇場の作品は保守主義的記念物である」と評したのを聞いた時には、苦笑せざるをえなかった。』

『舞台の様式や演出にも違和感をおぼえた。たとえばキーロフ劇場版では、舞台上に展開されるすべてが多かれ少なかれ踊りによって表現される。バレエとはそのようなものであると、私は信じて疑わなかった。

コヴェント・ガーデン版の<ジゼル>だと、たとえば第一幕の長ったらしい村娘のパ・ド・ドゥのような、全体の力強さをこわしてしまうような演出が守られている。また、ジゼルの母娘が演じる長くて古めかしいマイムなどのような、作品のテーマとは必ずしも関係のない要素もそのまま残されている。

こうしたある意味ではキメこまかく技巧的な、しかし現代的感覚からすればいささか古くさく退屈な作品へのアピローチが、多かれ少なかれ" 西側 "のバレエでは見出されるのである。』

『しかも一方においてイギリスではたとえばシェイクスピアの作品はたえず新しい解釈にもとづく演出がなされ現代的な生命を与えられながら上演されている。・・・・・なぜバレエ作品に関してだけ、イギリス人はオリジナル演出にこだわるのだろう?』

『作品というものは、生命のあるものである。したがって初演の時にはその時なりの生命があり、再演の時にはまた新たにその時なりの生命が表現されなければならないのだ。・・・・・そうしないかぎり作品は、博物館のガラスケースに死蔵されている過去の歴史的遺物となんらかわりないものになってしまう。』

(引用おわり)

モスクワのボリショイ劇場からの誘いを蹴ってサンクト・ペテルブルクのキーロフ劇場で踊ることにした理由について述べているくだり:

『ボリショイ劇場は、国の威信を見せびらかす場であった。地方から首都モスクワにやってくるおのぼりさんや外国人旅行者を感嘆させることが、主な活動目的の一つであったから、政府の政策や各種の方針に固執しなければならなかったことはいうまでもない。したがって、ボリショイ劇場のレパートリーには必ず、大衆が容易に理解できる水準のもの、しかも公的な政策推進の一助となるような種類の作品が含まれていなければならなかった。

それに対し、キーロフ劇場の舞台の場合はそうではなかった。政治の中心からはるかに離れたレニングラード(いまのサンクト・ペテルブルク)にあるおかげで、ある程度までは芸術的に洗練されたものを培うことが可能であった。』

『つまり私には、ボリショイ劇場のある種の厳格さというものが、踊り手たちが完全に自己表現をする自由を妨害しているように思えたからである。・・・・・というのもそのやり方は、なるほど踊り手たちに鋼鉄のような強い筋肉こそ与えはしたが、それに精神性がともなわず、スポーツ選手でいえば記録破りだけをめざす強者に仕立てあげるようなものであった。』

(引用おわり)

ヌレーエフの両親がタタール人だったというのも、はじめて知った(ロシアはモンゴル配下のタタール人に200年間支配されていた)。じっさいヌレーエフは、1955年にレニングラード国立アカデミーで教育を受けるまで、バシキール自治共和国(当時)ウーファ歌劇場バレエ団にいた。

名字もほんとうは『ヌレーエフ』ではなくて『ヌーリ』。祖父がヌレーエフの父親の出生届けをした際に、『ヌーリ・ファスリ(Nuri Fasli)』と名乗ったのを書記が聞き誤って『ヌレーエフ』と記録したという、それだけのことらしい。

『ヌレエフ(J・パーシヴァル著)』には、写真もかなり豊富に掲載されている。あらためてヌレーエフの顔をじっくりと見ることができた。『ヌレーエフ神話』にあまりに慣らされてしまっているせいか、『絶世の美男子』だとばかり思い込んでいた。そういう意味では、『平均的なハンサム』・・?

※ 文中、サンクト・ペテルブルクの『キーロフ劇場』とあるのは、現在の『マリインスキー劇場』のこと。帝政時代も『マリインスキー劇場』だった。

かんれんサイト

Petrushka was poisoned.(New York Native 1 Feb. 1993)
http://www.virusmyth.net/aids/data/jlpetrushka..
ヌレーエフの死因はエイズだった・・(Controversy broke out immediately following the announcement of Rudolf Nureyev's death in Paris on 6 January 1993. His personal friend and physician, Michel Canesi, stated to the media that Nureyev had died of "a cardiac complication, following a grievous illness", and refused to elaborate further: "Following Mr. Nureyev's wishes, I can't say any more." However, many of Nureyev's friends said that he had "AIDS".・・・・・)

The Nutcracker: Nureyev Production Still The Best
http://www.culturekiosque.com/dance/Features/rh..
ヌレーエフがプロデュースした『くるみ割り人形』について(ビデオの紹介:英語)・・・美しい画像が何枚か。

かんれんファイル

■ 劇場でオペラ・グラスは秘密兵器
■ バレリーナのはなし

(2002.09.20.)

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