EKAKINOKI

21世紀に向けた美術館の方針と限界

アルテ・ポーヴェラ展を通してかんがえる

展評訳(抜粋): ExibArt / Irene Amore 13.08.2001.

Arte Poveraロンドンのテイト・モダンでアルテ・ポーヴェラの大規模な展示会(〜2001.08.19.)が催されていた。

第三の一千年に向けて、テイト・モダンが美術館の方針を積極的に転換し、あたらしいアートをもどんどん展示会にとりいれているのは、評価に値する。しかしそこには、さまざまな矛盾もある。

いま美術館が注目しているのは、既成コンセプトの変容を狙うインスタレーションのようなアートと、パフォーマンス、つまりリアクションがあるアートだ。

これらのアートは、作品と鑑賞者がある時間、ある空間を共有してはじめて意味をもつ。これが、美術館ではなりゆき上、「あるジャンルという枠」にキッチリとおさめられ、静的なアートにならざるをえない。

こういうアートを実現できるのは、アトリエのような実験的空間であって、蒐集・保存を目的とした美術館のような場所では、正直いってムズカシイ。

たとえばピストレット(アルテ・ポーヴェラの作家)の作品『立ち話の構造』・・・この作品は、ピストレットのアトリエで公開された。参加者はそこで腰をおろすこともできれば、作品をいろいろと試すこともできた。

美術館やギャラリーで、一息つくこともできず、ただひたすら作品に見入ることに鑑賞者はいいかげんウンザリしている。

テイト・モダンでは、このピストレットの作品をさわることはもちろんできない。「作品を損傷から保護するため、残念ながらこの作品をためすことはできません。」・・・御丁寧に注意書きまで添付されている。

テイト・モダンに展示されているマリーザ・メルツの作品『生きている彫刻』や、ピーノ・パスカリの作品『大砲 美 チャオ』のもっている挑発性なども、おなじような理由から、作品が本来もっている意味を失っているようにおもえる。

しかしいっぽうで、「集めて見せる」=「美術のえがいてきた軌跡を再確認し、さらなる進展と発展をだれかほかのアーティストに託す」という、美術館本来の使命もムゲにすることはできないのだ・・・

(2001.09.28. 訳)(2003.02.04. 点検)(2003.12.05. BOOK追加)(2004.12.12. 見回り)

※ 「アルテ・ポーヴェラ」=「Poor Art」
※ ファイル中の画像:ルチアーノ・ファブロ作『さかさまになった金のイタリア』

テイト・ギャラリー
(テイト・モダンが2000年5月にオープン)
http://www.tate.org.uk/

かんれんファイル

■ アルテ・ポーヴェラ

BOOK

■ 『新しい美術館学 エコ・ミューゼの実際』 長谷川栄著/三交社/1994年初版:日本における美術館の現状とモンダイ点など、キョーミ深い。

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