EKAKINOKI

ロイグのインスタレーション作品

展評訳: ExibArtSilvio Saura 29.06.2001.

Bernardi Roig「たび」という言葉にはいろいろな意味がこめられている。マルコ・ポーロとコロンブスを引き合いにだすまでもなく、「ツーリスト」と「旅行者」には差異がある。

「旅行者」にとってなにより大切なのは、「場所をかえる」ということ。どこに行くかということは、それにくらべるとさしたる重要性をもっていない。「旅行者」が求めているのは、出発点と到達点における「ちがい」。「旅行者」は、つねに過去にいた場所の記憶をたずさえているが、それはあらたな場所でまたべつのなにかにかわっていく。

町だろうが田舎だろうが、はたまた大都会だろうがかわりなく、「旅行者」はなんらかの足跡を残していく。なにかのかたちでその場所に「影響」をあたえる。それは、「たび」という言葉のもつ、もうひとつの意味が「コミュニケーション」だからだ。良きにつけ悪しきにつけ、「影響」をあたえない「コミュニケーション」などありえない。

Bernardi Roigベルナルディ・ロイグもまた、カバンのなかにスペイン人の情熱を折り畳み、フランス、イタリア各地を経て、トリエステで展示会をもよおしている。「壁との対話」という内的な鼓動を通して、彼はその人間性をつよく刻みつけている。

作品のタイトルは「目のみえないことと内なる理解(Blindness & Insight)」。このふたつの言葉は相反しているようで、じつはおなじことをも意味している。「目のみえない」ということのひとつの意味は「盲目」。もうひとつの意味は「無知」。「無知」と「内なる理解」はべつなる対極にあるが、おたがいに通じあっている。

ロイグの表現技法はインスタレーション※。「からだ(身体的能力)」にばかりとらわれていると、「からだ」の乗り越えることができない物理的限界にみずからを縛りつけることになり、心でものを見ることができなくなる。精神的に盲目なひと、現実に目を向けようとしないひとのさまを、ロイグはいろいろな角度から焦点をあてて表現する。そのことに気が付くために、人間のからだを生贄(いけにえ)にする。

Bernardi Roig目からでてくる炎は、ロイグの表現のなかでもキーポイントになっている。人間の肌をおもわせるしわくちゃの額がその炎にさらされている。それはやがて真っ黒いススにおおわれていく。

これは、盲目の象徴ともとれるし、もしかしたらあまりにもたくさんのことを見過ぎて盲目になってしまったひとを象徴しているのかもしれない。解釈にはいろいろある。解釈の数だけ作品ができるわけで、ロイグはそのなかのひとつを表現し、あとは鑑賞者の判断にまかせている。

ロイグがふれている主題そのものが単純だとはおもわないが、作品の具体的な表現からは、その主張がはっきりと伝わってくる。インスタレーションでは、全体に中間色が用いられている。マネキンには、黒のスーツと白いワイシャツが着せられ、頭は灰色。紙に木炭でえがかれたデザインは、目からでた炎が額を焼きつくしているときにでた、真っ黒いススを想起させる。

ロイグが椅子にごくふつうに腰掛けたまま、椅子を焼くというデモンストレーションがあった。すすけた木製のおりたたみ椅子が、いま壁にたてかけてあるのがなんともさびしげで、壁を拒んでいるようにかんじられる。これも、見るひとによってさまざまにかんじるだろう..。

(訳 2001.07.02.)

※ 展示:「Bernardi Roig - Blindness & Insight」 Trieste, Lipanjeputin 〜2001.07.31.

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