EKAKINOKI

これってアート?ネット・アートの場合

評訳: Exibart Valentina Tanni 2000.06.03.

net art「これって、アート?」→「なにが芸術なのか?」

ごく自然で、いつの時代にもおめみえするギモンだ。ちょっと古くさくなったかもしれないが、また消えてなくなってしまうギモンでもない。

アーティストは創作を通してより鋭く人生に切り込もうとする。そしてそのたびに、いつもあたらしいオモチャに手を出したがる。新しいアート表現方法があらわれるたびに、「なにが芸術なのか?」という問いかけもまた首をもたげる。

アートはこれこれこういうものだと断言できれば便利にはちがいない。でも今日ではもはやそれは不可能だ。

「なにが芸術なのか?」と論を尽くすよりも、もっと賢明な解決方法がある。モンダイ提起そのものを諦めてしまうことだ。大切なのは、脳ミソのどこにあたらしい経験を入れるか、それを知ることではないだろうか?

絵画、彫刻、ビデオテープ、ウェブサイト・・どのような表現形式のものであれ、それがアートなのかどうかはっきりとしていれば、たしかに安心かもしれない。でもそういう保証がないというのも、また刺激的。

『慣れ』、なのかもしれない。(わたし自身、あるとき庭に現代彫刻を据えてみた!)

従来だったら芸術のジャンルには入らないようなありとあらゆるものが、すでにアートとして紹介されている。素材というものをまったく放棄してしまったアートも見たし、言語、動作、ニンゲン心理を駆使した、従来のアートとは似ても似つかないしろものにもお目にかかった。

・・・何世紀ものあいだ、『美的経験』に関するあらゆることが、『意味』という次元と関わりをもってきた。今日、この境界は取り除かれ、刷新されている。

ジョン・ケージ(アメリカの作曲家・思想家 1912-)は、「生きている、そのことに気付くためにアートがある。」と言った。つまり、寛容でさえあれば、『いっさいの感覚的経験を通してアートできる』ということになる。ならば、イメージ、音、におい、あるいは知的経験によってアートすることも、もちろん可能だろう。

「湧きあがってくる衝動を表現したいとおもうとき、大切なのは、『アートとはなにか?』ではなくて、『どのようにして表現するか』だ。」というグッドマンの言葉には頷ける。じっさい、どのようなものでもアートの表現手法となりうる。それを通して、ほかのひとたちが同じような経験をし、その経験が違和感なくひとびとの共通認識となるか・・これはまた別のことだ。

いつの時代にも、作品にたいする批評なり評価はあった。今日、そんなものはもうナイに等しい。どこででもアートを見ることができるし、またどこにも存在しないとも言える。ウェブサイトだって・・オモチャとも、文学とも、デザインとも、ビデオゲームとも、あるいは「たんなるゴミ」とも言えないことはないし、「いやアートだ」と言うこともできる。

※ 『ネット・アート』という言葉がつかわれていますが、それが具体的にどのようなものなのかについての記述はありません。ウェブ・デザインを指すのか、ファイル中画像のようなCGアートなのか・・たぶん。

(2000.06. 訳)(2003.11.07. 点検)

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