EKAKINOKI

作品に説明はいる?

評訳: Exibart Massimo Campaci 2000.05.30.

「絵画とはなにか?ものの表面に塗られる色だ。」という投稿記事(イル・ジョルナーレ・デラルテ)のなかで、ポッツィ氏は、「美術作品に言葉による説明はいらない」というキアーヴァリ(美術評論家)の言葉を引用して、今日の芸術のあり方、および芸術作品に添付された『言葉による説明』に疑問を投げかけている。

大昔の芸術には、説明、賞賛、コメントなどなどの但し書きがついていましたが、もし芸術がそのままのかたちで進展していたら、芸術がもっと別のなにかになるきっかけを失っていたでしょう。(ポッツィ)

ふむ、でも「別のなにか」ってなんなの?芸術が恵みを受けたのも、あの輝かしいルネサンスのおかげなんで、それ以後バロック、マニエリズム、ロマンチズムにいたるまで、ナニナニ主義と名がつくすべてのものが、絵画からいっさいの理屈を脇におしのけ、自然、死、愛などの人間的なテーマをとりあげ、ひとの心や感情に訴えかけた。それはやがては芸術の『御旗(みはた)』になっていく。それ以降、芸術はより曲がりくねった、目にみえない、概念的なものにはなってしまったけれど。

もし、芸術がなにか別のものになるキッカケを失なえば、その存在意義をなくすか、あるいはよくても皮肉な意味で、彩色の技術にとどまるしかないでしょう。(ポッツィ)

ポッツィ氏が、芸術を定義しようという誤りに陥っているとはおもわない。ただ、その言わんとしているところが非常に分かりにくいばかりか、「絵画にとって大切なのは表現技法だ」と言わんとしているようにも聞こえる。もしそうなら、とても狭い了見だとおもわざるをえない。

絵画の表現技法がもつ可能性について、いまはほとんど顧みられなくなっていますが、表現技法における革新は、芸術家と鑑賞者をもっと密接に結びついていたとおもうのです。もしかしたら芸術の世界においても、インターネットが出現したほどの、予測もできない進歩をしていたかもしれません。今日のような芸術の有り様は、芸術からの逃亡でなければ怒りとしかおもえず、芸術そのものとはまったく関係がない、たんなる混乱を生産しているとしかおもえません。(ポッツィ)

ポッツィ氏は、投稿記事のなかで今日の芸術にたいしてできうるかぎりの理解を示そうとしている。いたってまじめなのはわかる。

しかし鑑賞するひとたちがそうであるように、今日、芸術は複雑をきわめている。それに加えて、芸術の潮流を牽引しているのが批評家と芸術関係企業の二大車輪だってことぐらい衆知の事実だ。そういうなかで、「過去の作品が作品たりえたのは、その表現技法がたえず革新されたからだ。」ということにあらためて言及したところで、いったいどんな意味があるのだろう?

それはまるで、彫刻作品の美しさをわざわざ絵に描いてみせるようなものだ。なんのために?ナンセンス。インスタレーション作品とか、もっと広範囲にわたる芸術作品とかなら、ほかの言語(表現様式)に置き換えることは考えられるかもしれない。でなければ、作品にたいする冒涜でしかない。

今日の芸術および絵画にはコミュニケーションがありません。何故ならば、芸術がいきつこうとしている方向について共通の認識がないからです。/鑑賞者はアーティストのいわんとするところを汲みとろうとはしません。作品に、自分の世界を映し見ているだけです。(ポッツィ)

ひとつの意見ではあるとおもう。しかしここでポッツィ氏が期せずして暴露しているのは、今日の芸術、さらにはそれがあろうとしているものにたいしての無理解でしかない。「コミュニケーションには、自分自身のなかでのコミュニケーションというのもある。」などと言ったら、ポッツィ氏にはなにがなんだか分からなくなってしまうだろう。『コミュニケーション』の定義を曖昧にしておいて、「芸術においてコミュニケーションがアル、ナイ。」というのは意味がない。

過去に絵画がもっていた叙事詩的性格。芸術家が作品を通して伝えようとしていた世界・・・(ポッツィ)

ポッツィさん!むかしの鑑賞者は、それこそ芸術家の思惑なんぞより、自分の世界にひたりきっていただろうよ。

花を咲かせるようにみせかけて、そのじつそれほど幸福ではない芸術にたいする批判、そしてあからさまに自己弁護をしているという点でこの投稿は興味深かった。ポッツィ氏が絵画にたいして否定的でなのではなく、絵画にたいする情熱から言っているのは分かる。

絵画はより絵画になった。(ポッツィ)

はは、これは彼自身が言った言葉。この文句こそ、芸術によこたわっている、もっと本質的なパラドックスに疑問を投げかける剣にもなったとおもう。

言葉による説明が、芸術を理解する助けになるのかどうか、最後にこの点に的をしぼってまとめてみたい。

)) 単なる注釈から批評家が書いたものまで、視覚芸術にも言葉は必要だ。言葉をつかって補うことによってイメージがより違和感なく伝えられるならば、それでポッツィ氏が言うような馬鹿げた結果になるとはおもわれない。

)) 作品を前にして、あたりまえだが脳みそは考える。頭に浮かぶイメージをよりわかりやすく表現し、それを伝えるためにこそ言葉がある。視覚に訴える分が多ければ多いほど、言葉にも表現したくなる。イメージを理解することと言葉で理解することは、相反するものではなく、どこかでつながっている。

)) イメージのみで言いたいことをつたえるのは、言葉だけで伝えるのよりもっと複雑で大変だ。現代のアーティストが作品を通して言おうとしていることをより理解しようとおもうと、やはり説明が必要になる。(これは、言葉によるアーティストのメッセージをより理解するということとはベツ。)いっぽうで、アーティスト自身、作品に込められた本当の意味を必ずしもうまく語れるわけではない。言葉をあまた並べてみたところで、鑑賞者が作品から受けた直感が、その言葉のなかにかならずしも見つかるとは限らない。

以上・・・芸術作品をどれだけ言葉で説明したところで、その言葉のはしばしからさらにいくつかの『知の錠』をこじあけ、そこにアートを理解するための光をみいだすのは、そうたやすいことではない。それなのに、ポッツィ氏のようにいきりたつ必要がどこにある?そうでもして芸術から言葉を閉め出さないと、芸術の魂が『カオス(渾沌)という大洋』にででも尽き果ててしまうと言うの?

ワクワクするような絵画論はいつでも大歓迎だけれど、そのためには急がずあきらめないこと。よく言うじゃないですか・・・希望さえあればなんとかなる。

(2000.05. 訳)(2003.11.07. 点検)

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