EKAKINOKI

パウル・クレー展

Paul Klee 1879-1940

展評訳: Exibart / Federica De Maria 2000.10.25.

大規模な『パウル・クレー展』が、トリノ近代・現代美術館(GAM)で催されている(2000.10.26.-2001.01.07.)。1903年からクレーが逝去した1940年までの103作品が、世界中の主要美術館、個人コレクションから集められた(日本の笠間日動美術館も含む)。スイス人パウル・クレー作品の幅の広さとふところの深さをうかがうことができる。

クレーの作品は、つねに『現実世界』との接点をもっている。そしてクレーによって、『現実世界』はさまざまに形をかえていく。「アーティストは木のようなもんさ。『根っこ』があってはじめて生きている。そこから栄養をとる。だけど木とちがうところは、現実世界に刺激を受け、目には見えない『内なる世界』をアーティストはキャンバスの上に再現する。」ふだんは見逃してしまうような現実世界の一面を、クレーは『拡大鏡』を通してみせてくれる。

『抽象の世界』と『音楽的なハーモニー』、これが展示会のテーマだ。クレーは、音楽家の息子だった。彼自身、スイス・ベルン市交響楽団の第一ヴァイオリニストだった。じきにクレーは、音楽的な表現を絵の世界においてもするようになる。この生来の『音楽性』が、クレー作品のひみつのひとつだろう。

クレーは、音楽的なテーマやタイトルを好んで用いた。『記号による擬態』というクレーの作品スタイルは、形式を際限なく壊して成長していく『表現形態の様変わり』をともなっている。それは、現実や時間を超越して別次元のなにものかにダイナミックに変容していく。

クレーの人生と創作に力を与えた場所が三ケ所ある。ミュンヘン、パリ、チュニジア。ミュンヘンでカンディンスキー(1866-1944)と親交をもち、それから、ブロウエ・ライターらのグループに近づいていった。そこで未来派や表現主義派と知り合うようになる。パリでは、ピカソの作品に出会う。パリはクレーの創作活動を爆発させた。一方で、アフリカと地中海のまばゆいばかりの光が、クレーの作品に色彩をあたえる。

「わたしと色彩はひとつのものです。」いきいきとして澄みきった色彩は、クレー作品の特徴でもある。クレーの『日記帳(1898-1908)』、あるいは後年教鞭をとっていたバウハウス(1919年-33年、芸術と技術の統合を目指したドイツの学校)での『講議録』のなかに、クレーがいかにたえまなく表現方法を探究していたかを見てとることができる。講義録から引用してみよう。

「クレーのスタイルを断定するのはむずかしいと、カタログの序文でミケーレ・ダンティーニが述べています。これはべつにフシギではない。スタイルがたえまなく変化するのは、もしかすると作家の性格によるのかもしれません。

あるいはたんなる偶然としても、おどろくにはあたりません。いずれにしても、作品とアーティストは別ものです。作品のなかになんらかのエピソードがうかがえるとしても、アーティストから作品を類推するのは不可能です。」

「モザイクや、織物、金細工、コラージュといった伝統的な工芸を、鉛筆、水彩、テンペラ、油彩をつかって模倣するという、いっしゅの『あそび』に興じているのです。」

「動揺」(1934年 テンペラと木炭・画布 額縁なし)ほか、展示会には著明作品がひしめいている。「ピエロ」(1929年)。「夜のパーティー」(1921年 油彩・紙)。「むずかる赤ん坊」(1923年)。「わたしの家のうえの月」(1927年 ペン・紙)。幾何学的な「茶色の点」(1914年 水彩・紙)。「赤い雲」(1928年 インクと水彩・紙)。「夜警をする若い男」(1933年 油彩と鉛筆・麻)。

洗練されたクレー作品において、『線』は、ひじょうに重要な意味をもっている。またひとつひとつの作品にもクレーのいろいろな考えが織り込まれていて、その謎解きに、果てしない想像力をかきたてられる。

(訳 2000.12.09.)(2002.09.11. 点検)

パウル・クレー作品
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/klee/
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かんれんファイル

■ パウル・クレー作品(カステル・スフォルツェスコ美術館)
■ カンディンスキー
■ ブラウエ・ライター(青騎士)

かんれんサイト

■ バウハウス・コスモロジー総合サイト:バウハウス研究者のページ(日本語)

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