EKAKINOKI

父と娘・ジェンティレスキ

Orazio Gentileschi 1563-1638
Artemisia Gentileschi 1593-1652

展評訳: Exibart / Maria Cristina Bastante 31.10.2001.

Gentileschi Orazio & Artemisiaアルテミジア・ジェンティレスキとオラツィオ・ジェンティレスキの足跡を単純に地図の上で追いかけてみると、お互いがまるでわざと会うことを避けていたかのようにみえる。娘のアルテミジアは、1613年にローマを去った。父親のオラツィオは1621年にジェノヴァに向かい、1624年〜1626年にはフランスにいた。一方アルテミジアはまたローマに舞い戻り、1629年にはナポリにいたことを史料が証明している。

娘アルテミジアの裁判沙汰(アゴスティーノ・タッシとのレイプ騒ぎ)のあと、父と娘はお互いに行き来はしていたものの、まったくちがう依頼主のために働くなど、あきらかに距離を置いて接っするようになっていた。オラツィオは1626年から英国のチャールズ1世の宮廷で仕事をしている。1638年ごろ、このロンドンで父と娘が最後に出会ったときも、ふたりのこういう態度には変わるところがなかった。

アルテミジア・ジェンティレスキとオラツィオ・ジェンティレスキのふたりにスポットがあてられた展示会というのは、ローマでは今回がはじめてだ。ほんとうのところどういうふうにこのふたりの人生は交叉しあっていたのだろう。「父と娘・ジェンティレスキ展」は、このことを展示作品を通して物語ろうとしている。作品は時代順に並べられ、アルテミジアとオラツィオにそれぞれのセクションが設けられている。

Gentileschi Orazio & Artemisiaオラツィオ・ジェンティレスキの画家としての活躍は、1588年〜1589年のシスティーナ図書館(ヴァティカン)の装飾にはじまる。スタイルは後期マニエリスムのさらにその末裔。作品の構成にも人物像にも、マニエリスムの影響が色濃く繰り返される。人物のボリュームを強調するために衣服のヒダは極端に誇張され折り曲げられ、その上に坐るかスベリ台にでもできそうだ。

オラツィオ・ジェンティレスキはそののちカラヴァッジョの影響を受けている。「出エジプトの休息」(1625ー26)などにみられる明暗の表現方法がそうだが、そこでは水平方向を軸にコンポジションが決められているため、なおさら人物に重みが加わっているような印象を受ける。自分自身を支え切れないのではないかとさえおもわれる。

アルテミジア・ジェンティレスキの作品は「サロメ」「スザンナ」「クレオパトラ」「ベルゼベト」「改悛のマグダラのマリア」といった人物像が多い。ときとしてそれらは肖像画とさえおもえる。そして、えがかれた人物の送った劇的な人生がそこには暗示されている。画風は父親オラツィオとよく似ている。

アルテミジアのえがく女性像はたいがいの場合ヌードか、女性のからだがいまにも衣服から飛び出してきそうだ。それが、計算された構図のなかに神秘的に配置されている。アルテミジア・ジェンティレスキのこういう作風はさいごまで変わらず、ぎゃくにいまにも色彩がくだけんばかりに激しさを増している。

※ 展示会:「Orazio e Artemisia Gentileschi」/〜2002年1月20日/場所:Palazzo Venezia (Via del Plebiscito 118) , Roma/

つけたし

1624年〜1626年、オラツィオ・ジェンティレスキはパリでマリー・ドゥ・メディチ(フランス国王アンリ4世妃)のために仕事をしている。そののちロンドンで仕事を続け、1639年ロンドン没。

かんれんファイル

● アルテミジア・ジェンティレスキ
● カラヴァッジョ・ファイルのうちのひとつ
● マニエリスム
● クロード・ロラン(事件の当事者アゴスティーノ・タッシはロランの先生だった。)

かんれんサイト

● アルテミジア・ジェンティレスキ(英語)

(訳 2001.12.12.)

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