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イタリアのアート誌「アルテ・ドジエ」

イタリアでおそらくいちばん読まれているアート誌のひとつ「アルテ・ドジエ」社長ジョイア・モーリへのインタビュー。

インタビュー訳: ExibArtSilvio Saura2001.04.30.

art media美術雑誌というペーパー・メディアのもつ意味は?

「アート・ドジエ」の目標としているのは、より正確な知識にもとづいた、わかりやすい解説です。展示会評、研究成果、絵画解説。そのどれについても、より正確な科学的検証と、それをいかにわかりやすく表現するか、このあいだのバランスをとるのががいつもネックです。まるでコロンブスのタマゴです。とくにイタリア美術史家にとってこれは大きな問題。ほかの国、フランスやイギリスでは「わかりやすく説明する」ということが、けっして質の低下につながらない。ゴンブリッヒやチャステルの文章を読めばそれはあきらかです。ところがイタリアではアカデミズムの影響がひじょうにつよく、そこではあえて難解な言葉がつかわれていました。そうすることが彼等にとっては「明解な説明」であったのです。これは専門家と一般のひとたちのあいだの大きなみぞです。「正確であること」、「科学的であること」と「わかりやすい説明」がけっしてべつのものではないとイタリアの美術史家たちが認識しはじめたのはごく最近のことです。

イタリアおよび世界のアート誌の現状をどう見ますか?

知的関心のもちかた、出版社としての方針、ビジネスといった観点からもひじょうに多様化しているとおもいます。

art media貴誌のターゲット層は?

「アート・ドジエ」の読者は年齢的にも、予備知識も、ひじょうに広範囲です。中学生の読者もいれば、多くの大学で「アート・ドジエ」のテキストが試験につかわれています。蒐集家もいれば愛好家もいます。展示会や美術館をたずねるのをたのしみにしているひとたちもいますし、さまざまな分野の専門家もいます。

貴誌を通してなにを伝えたいとおもいますか?

ジウンティ出版社(http://www.giunti.it/)は美術分野の出版にながい歴史をもっています。レオナルド・ダ・ヴィンチ筆本の複写、エルミタージュ美術館所蔵絵画全集など、採算のとれる範囲内で専門的な内容のものから図録にいたるまでいろいろあります。したがって「アート・ドジエ」という雑誌も出版社の方針からそれるものではありません。ですが目標はつねにおなじです。美術とその歴史をよりひろい読者に紹介していくこと。私自身はイコノグラフィー(絵画などの要素・形の歴史的分析)が専門ですが、文化の一部分を構成している美術史を説明することがひじょうに大切だとかんがえています。歴史、文化背景、宗教、依頼の動機などが、ひとつの作品の重要な要素となっていることがすくなくありません。創造性や思索は、それがどのような分野のものであれおたがいに影響しあっています。ですから「アート・ドジエ」においても、しばしば文学、映画、音楽、文化背景などとの関連にしばしばふれています。

記憶に残るような印象的な報道というのは?

無名作家をとりあげて評判になったときとか、ある解釈を提起して、その結果美術館が作品のタイトルを変更したとか、知的満足感を得た記事というのはたくさんあります。たとえば1994年にタマーラ・デ・レンピクカをとりあげました。彼女はイタリア美術界では無名でした。作品のポスターだけがでまわっていた。「アート・ドジエ」が彼女のことをとりあげた結果、一冊の本として出版されることになりました。この本も私が手掛けましたが、予想をうわまわる反響で四版を重ねました。このほかにもアキーレ・ボニート・オリーヴァの記事、あるいはシルヴィア・ボルディニの「エレクトロニカル・アートについて」、レナート・バリッリの「キース・ハーリングについて」など、「アート・ドジエ」がアヴァンギャルド芸術をとりあげたときのものなども印象が深いです。

問題になったような報道は?

雑誌ですから問題をかもしだすというのはよくあることです。リアクションの大きかったのはファビオ・イズマンの「ブラック・ページ」。折りも折りジュビレオのはじまりのころにでた記事にたいしてヴァティカンが告訴しました。イタリア人官僚および共謀者がナチの芸術作品略奪に協力していたというやはりイズマンの記事も。

雑誌をつくるときにトラブルは?

とくにありません。あえて言うなら、外国の美術館にくらべてイタリアでは組織がちゃんと機能していないということでしょうか。たとえば世界の主だった美術館での展示について、2003年ぐらいまではもうわかっています。それがイタリアとなると、最後のさいごまでわからないのがフツウ。

art mediaどういうときに満足する?

「教養の旅」とか「文化行事」とかいう言葉は今日では陳腐でさえあります。展示会や美術館にたくさんのひとが押し寄せるのはごくあたりまえ。ところが10年前はもっともっと閉鎖的な状況だった。おもしろみのある企画、予約のシステム、大規模な展示会は保険と運送料をまかなうために相当数の入場者も要求されます。そんなことが考えられるような経済状態がそもそもなかった。それが、経済が成長し、アートを中心とした消費構造が成り立つようになった。宣伝やコニュニケーションの発達もあった。学校での教育もある。それらがすべていっしょになっていままで眠っていた知的好奇心を誘った。地球上の芸術遺産の大部分を占めているこの国では、学校の美術史の授業をなくそうとしていました。経済の力がアートへの関心を引き出したのはたしかです。アカデミズムによって閉息していた美術界の状況に一石を投じた「アート・ドジエ」がその一端をになったのだとかんがえるのはとてもうれしい。

スタッフとしてどういう人を望んでいますか?

雑誌の制作には協力者が世界中にたくさんいます。専門家たちです。美術史家、大学教授、美術館館長などが、あたらしい発見や展示会、研究について提案してきます。編集部には、大学を卒業したばかりの若い研究者の提案もきますし、科学委員会メンバーからの推薦もあります。そのなかには、まだ若い大学生を推薦するものもあるのです。そこで判断の基準になるのはその記事が読者に受け入れられるかどうかです。著者がどの学派に所属しているのかにはいっさい構いません。美術史の世界にはオストラキズム(陶片追放:ギリシャ時代の投票による国外追放)に相当するような厳格な派閥があるのです。

スタッフとしてどういう人には来てほしくないですか?

自分のためにか、だれかおともだちのために記事を書くようなひと。じっさいそういう著者は「アート・ドジエ」にはいません。

満足していないことは?

?????

インターネットの将来についてひとこと?

www.artonline.it」は「アート・ドジエ」の膨大な資料を活用、雑誌とほぼおなじスタッフでやっています。インターネット空間は、変更、追記、拡充がひっきりなしにおこなわれて、その姿を絶え間なく変えていく。質問であれ記事であれつねに内容は更新され、質を高めながらいろいろな方向に発展していくことができる。知のこのよう移動の仕方は綱渡りのようであるけれど、いままでの静的な紙の媒体にはなかったあらたな可能性を提供しています。「編集」という観点からは、インターネットは理想的です。建築でいうと、ル・コルビュジエかリエトヴェルドのすっきりしたラインによる一体感が本か雑誌なら、インターネットはさながら、カーブ、楕円、幾何学的なかたちの組み合わせで無限に変化していく構造をつくりだす日本人建築家黒川紀章。知と生がダイナミックに流れています。

(訳 2001.05.04.)

ExibArtのコメントより

Biz

(すこしながいので要約)・・・・ 「アート・ドジエ」は大学でテキストをつかってもらっていることに満足しているけれど、それは「アートのショーウィンドウ」をつくていることとおなじじゃない..?そんなふううにアートをお見せしてもらってもちっともおもしろくない。もっとも人間的な表現であるアートはつねに変化しつづけ、湧きあがってくる。大切なのはどうやってアートと対峙するか、アクティヴにアートするかで、いい子になってアートをながめることじゃない。野獣になることで、アートの家畜になることじゃない。(「アート・ドジエ」の保守的なショーウィンドウ化を指摘している。)

Constantino, Firenze

(美術史専攻で卒業をひかえたコンスタンティーノ。大学発行の雑誌がわかりにくいことから話がはじまり、自分の場所とはあまりかんじられなかった大学について。ちょっとおもしろい・・)

文学・哲学はほかのどの学部ともちょっとちがう。最初の一年はこれといって試験がない。どの方向に進んでいくにしても、共通にパスしなければならない試験は、唯一イタリア文学に関するいくつかだろうけど、よくわからない..。一年目に通うヤツもいるけど、19か20才..、それでなかには美術史に関心のあるひともいる。でも、ではどのコースなのかとなるとわからなくなっちゃう。たとえば中世美術についてのふたつの講議があるとする。なんとなく似ているみたいなんだけど、ぜんぜんちがっているということもありうる。わかりやすい仕組みになっていないということのほかにも問題はいろいろある。たまたまとった講議に行ったら教室が生徒であふれんばかりだったということもある。そうするとやる気もうせて、町でもブラついてたほうがいいって気にもなる。

20才ぐらいのときっていろんなことに敏感でとても深刻にもなったりする。好きになったおんなのこが相手にしてくんない、あるいはなにか特別なことに興味を惹かれるんだけれど、きみのともだちはそのことにぜんぜん関心がない。ひとりだけ浮きあがってるみたいな。「トップガン」じゃなくて「メトロポリス」、「スパンド・バレー」じゃなくて「バロック」とか、よくわかんないけどたとえばそんなこと..。カンタンに自分を見失ってしまうばかりか時間までムダにしてしまう。いるじゃない..、ほんとにしずかなヤツって。すごく恥ずかしがっていて、ほんとはあなたの背広とネクタイにオソレをなしているのかもしれない。その瞬間の彼等はとても弱い存在。ボクがいるのはそういう彼等の側。

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