EKAKINOKI

ミラノ・ドゥオーモとブラマンテ

Donato D'Angelo Bramante
1444 Fermignano(Pesaro)- 1514 Roma

ブラマンテとダ・ヴィンチはミラノ・スフォルツァ家でほぼおなじ時期に仕事をしていた。ふたりがミラノを離れる1499年までの20年間ほどが評のテーマ。

展評訳: Exibart / Luca Scalco  05.04.2001.

Bramanteクレディート・ヴァルテリネーゼ銀行ギャラリーでの展示会は、ミラノ芸術史上の絢爛たる一時代をほうふつとさせます。1400年代後半は、ミラノの統治者スフォルツァ家の政治権力が増大し、イタリア・ルネサンスの主要都市のひとつとして、ミラノの活気に拍車がかかりました。ブラマンテは1477年ごろミラノに来ています。

ミラノがイタリア・ルネサンスのたんなる辺境でなかったことが、この展示会を通して再確認できます。前世紀まで、あらかたの批評家がイタリア・ルネサンス期におけるミラノを「中世」あつかいにし、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナの建築家)、フィラレーテ、ブラマンテの名前をひっぱりだすたびに、ヴェネツィアほか中部イタリア諸都市に関連づけを求めていました。

Bramante「建築界の巨人ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi 1377-1446)は1400年代前半に確固とした建築様式を築きあげました。このブルネレスキの建築様式と照らし合わせても、ミラノが、フィレンツェなどを追随する文化的主従関係になかったというのはあきらかです。

ミラノでは新しいものの考え方が活発に提起され、独自の芸術的創造活動をおこなっていました。保守主義とアヴァンギャルドの中間とか、さきがけと後進組の中間といったような、単純な図式で当時のミラノを正確に説明することはできません。」(L・パテッタ 1990年)

ミラノは、たとえばヴェネツィアがそうであったように、つねに最新の情報に接していました。しかもそのうえで、後期ゴシックのすぐれた伝統を放棄することなく、独自の創造活動をはぐくんでいたのです。

Bramanteドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の建築現場はさながら大工房でした。さまざまな素養をもったアーティストと技術者たちが行き交い、その水準はイタリア半島のなかでも一二をあらそっていました。ブラマンテも、たんに先進技術を伝えに来たのではなく、ミラノはさまざまなアーティストと意見の交換ができるよい土地でもあったわけです。

ブラマンテ建築のスタイルは後期ゴシック様式に属します。しかも、非常にロンバルディア地方(ミラノを中心とする地方)色がつよい。そこに、フィレンツェ、ウルビーノ文化のよい面を、あくまでロンバルディアの伝統をくずさないかたちでとりいれています。

ヴァルテリネーゼ銀行ギャラリーの展示会は、ブラマンテとレオナルド・ダ・ヴィンチとの交流、職工組合からのミラノ来訪要請など、ブラマンテに焦点をあてる一方で、政治的にも非常に活発だった1480〜1500年ごろのミラノの文化的雰囲気をつたえようとしています。

Bramante展示会の最後の部分で、画家としてのブラマンテに目が向けられる。ブラマンテの絵画作品はその多くが失われ、全体像は掴みにくいのです。そのことを差し引くとしても、画家としてのブラマンテは相応の評価を受けていない。

ブラマンテが、カーザ・パニガローラ(Casa Panigarola)に描いたフレスコ画からは、ブラマンテが遠近法を駆使したマエストロとして、同時代人のあいだですでに有名だったことが想像されます。

それとともに、このフレスコ画にはピエーロ・デッラ・フランチェスカの影響もみられます。ピエーロ・デッラ・フランチェスカは、遠近法を理論的に裏付け、絵画に応用したルネサンス草創期の巨匠です。ブラマンテはおそらくウルビーノで、ピエーロ・デッラ・フランチェスカ(1415-1492)に出会っていたものとおもわれます。

(訳 2001.04.08)(2004.10.24. 点検)

かんれんファイル

■ ミラノのブラマンテ建築
■ ピエーロ・デッラ・フランチェスカ

絵画 ロシア イタリア