+ えかきのき・メディチ家のひとびと (PhotoFile)

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メディチ家のひとびと (de' Medici)

メディチは、いまではフィレンツェの代名詞にさえなっている。しかしメディチ家は、フィレンツェ市をなんべんも追い出され、舞い戻っている。舞い戻ることができた最大の理由は、メディチ家のポピュラリティだろう。おもしろいよね、イタリアのそういうところ。


コジモ・イル・ヴェッキオ
Cosimo il Vecchio (1434-64)

Lorenzo il Magnificoヴェッキオ=年長の(老いた)→老コジモ。親しみをこめてね。

フィレンツェから与えられた称号「祖国の父」通り、そののちのフィレンツェ、メディチ家隆盛の基(もとづえ)を築いた。

1453年、東ローマ帝国がイスラム勢力(オスマン・トルコ)によって息の根を止められると、多くのギリシャ系文化人がヨーロッパに流れ込み、コジモはかれらを積極的に受け入れた。

このジジツがルネサンスに与えた意味は大きい。

諸国がてんでバラバラに分かれていたあの時代のイタリアで、その死がイタリア半島全体で惜しまれたというのは、コジモという人物の、いまに知られざる大きさだったのではないだろうか。

※ 画像は、メディチに仕えていたヴァザーリの助言をもとにポントルモが描いたコジモの肖像(1557年)。


ロレンツォ・イル・マニフィコ
Lorenzo il Magnifico (1449-92)

Lorenzo il Magnificoコジモ・イル・ヴェッキオの孫。

「イル・マニフィコ」の「マニフィコ」は「スゴイ」とか「ワンダフル」っていう意味。

政治家としても芸術のパトロンとしても、ロレンツォはルネサンスの華。

当時フィレンツェ市民が愛唱したロレンツォの詩↓

Quant'e bella giovinezza,
che si fugge tuttavia!
Chi vuol esser lieto, sia:
di doman non c'e certezza.

「あしたがどうなるかなんてしれたことかい、、たのしもうぜ、いまの若さを。」ってな内容。

ロレンツォの宮廷に集っていたひとたち・・・・・レオン・バティスタ・アルベルティ(理論家: Leon Battista Alberti 1406-72)、、プルチ(詩人:Luigi Pulci 1432-84)、、フィチーノ(プラトン・アカデミー院長:Marsilio Ficino 1433-99)、、ボッティチェリ(美術家:Sandro Botticelli 1444-1510)、、ポリツィアーノ(詩人:Angelo Poliziano 1454-94)、、ピーコ・デッラ・ミランドラ(哲学者:Pico della Mirandola 1463-94)・・・

痛風のため温泉通いをしていたが、結局、壊疽で死亡。

1492年4月8日、ピーコ・デッラ・ミランダ、ポリツィアーノら友人近親者に囲まれ、43歳の若さで逝った。

サヴォナローラが臨終を看取ったというのがなんとも皮肉。

※ 画像はウフィツィ美術館にあるロレンツォのデスマスク。

→ メディチ家礼拝堂にあるミケランジェロ作ロレンツォの墓
→ ボッティチェッリ


ジュリアーノ・イル・ベッロ
Giuliano il Bello (1453-78)

Giuliano il Belloロレンツォ・イル・マニフィコの弟。通称イル・ベッロは美男子。

かつて、サンタ・クローチェ教会前のあの広場で、美女シモネッタ・ヴェスプッチに勝利を捧げ馬上試合に興じていた。

1478年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、復活祭ミサの最中、パッツィ家郎党が兄弟に襲い掛かり、イル・ベッロはほうぼう刺されて死亡。イル・マニフィコはかろうじて逃れた。

ディカプリオの「ロメオとジュリエット(1996年)」の世界!

クレメンス7世は、イル・ベッロの息子。

※ 肖像はボッティチェッリ作(Pinacoteca dell'Accademia di Carrara, Bergamo)

→ パッツィ家による暗殺事件の真相
→ ヴェロッキオ作イル・ベッロ像


ロレンツォ・イル・ポポラーノ
Lorenzo il Popolano (1463-1503)
Lorenzo di Pierfrancesco

ボッティチェッリに「プリマヴェーラ」を依頼したとされる。「プリマヴェーラ」「ヴィーナス」の所有者。

1480年代、いとこロレンツォ・イル・マニフィコと政治的摩擦があったとされる。

カテリーナ・スフォルツァと結婚したジョヴァンニ・イル・ポポラーノは弟。

→ プリマヴェーラとネオプラトニズモ


ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ
Giovanni il Popolano (1467-98)

Giovanni il Popolanoカテリーナ・スフォルツァと結婚。

このひとの息子「黒隊のジョヴァンニ」が将来のメディチ家の重要な系譜になっていく。

イル・ポポラーノ自身は、息子ジョヴァンニが生まれるとすぐに死んだ。

だから息子が荒れちゃったのかもしれないが、いかんせん、カテリーナの息子だけんね。

ボッテイチェッリ作「プリマヴェーラ」「ヴィーナス」の持ち主ロレンツォ・イル・ポポラーノは兄。

※ 肖像はブロンツィーノ作(部分)

→ 妻 カテリーナ・スフォルツァ


ピエーロ・ディ・ロレンツォ
Piero di Lorenzo, il Fatuo o lo Sfortunato(1472-1503)

ロレンツォ・イル・マニフィコの長男。教皇レオ10世は兄弟

父亡き後のフィレンツェの統治者(1492-94年)。

フランス軍の侵略を許し、失脚。怪僧サヴォナローラにとってかわられた。逃亡の末、溺死。

このひとの息子が下記ウルビーノ公ロレンツォ2世で、孫カテリーナがフランス王家に嫁ぐ。

息子のウルビーノ公ロレンツォが統治者に返り咲く1513年まで、メディチ家はフィレンツェから遠ざかる。通称通り「ついてないヤツ」。

※ 肖像はギルランダイオ。Cappella Sassetti, Firenze


レオ10世
Giovanni de Medici (1475-1521)Leo X (在位1513-21)

Leo Xメディチ家からはじめてでた教皇。ロレンツォ・イル・マニフィコの息子。

父ロレンツォがメディチ家に住まわせたミケランジェロとはおさななじみだが、重用した美術家はラファエッロ。

サン・ピエトロ寺院再建のために免罪符を売ったことが、マルチン・ルター(Martin Luther 1483-1546)の教会批判(「95カ条の意見書」)の引き金となる。

※ 肖像はラファエッロ作(部分/ウフィツィ美術館)

→ フィレンツェ入りするレオ10世 (ヴァザーリ作・ヴェッキオ宮)


クレメンス7世
Giulio de Medici (1478-1534)Clemens VII (在位1523-34)

Clemens VIIパッツィ家による暗殺事件の犠牲となったジュリアーノ・イル・ベッロの息子。つまり、教皇レオ10世のいとこ。

クレメンス7世はおさななじみのミケランジェロを庇護し、システィーナ礼拝堂に『最後の審判』を依頼した。

政治的にはいろいろと決断を迫られた教皇だった・・・

フランスと神聖ローマ帝国がしのぎを削ったイタリア戦争・・・神聖ローマとスペインの連合軍によってローマが掠奪陵辱(1427年)の憂き目にあったのもこのひとの時だった。

また英国王ヘンリー8世(1491-1547)の離婚を認めなかったことが、結果的に、アングリカン・チャーチ(英国国教会)の出現につながる。

カトリーヌ・ド・メディシスとのちのフランス国王アンリ2世の仲をとりもつ。

※ 肖像はヴァザーリ作(ヴェッキオ宮)


ウルビーノ公ロレンツォ
Lorenzo di Piero (1492-1519)

Lorenzo de Medici 1494年、フィレンツェから逃げ出したピエーロ・ディ・ロレンツォの息子。

サヴォナローラ後のフィレンツェの統治者(1513-1519年)に返り咲いた。

伯父の教皇レオ10世は、24歳のロレンツォをウルビーノ公(1516-1519年)にする。

マキャヴェッリは、このひとに『君主論』を上梓しました。でもロレンツォはほとんど興味を示さなかったそうです。

娘が生まれるとすぐ、妻ともども梅毒(!)で死んでしまいました。

しかしその娘が、のちにフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスとなり、メディチの血が、フランス王家でつづいていきます。

※ 肖像はブロンツィーノ作。

→ フィレンツェ入りするレオ10世を馬上で迎えるウルビーノ公ロレンツォと黒旗隊長ジョヴァンニ


黒隊のジョヴァンニ
Giovanni delle Bande Nere (1498-1526)

Giovanni delle Bande Nereカテリーナ・スフォルツァとジョヴァンニ・イル・ポポラーノの息子。

あばれんぼうのジョヴァンニはその生涯をいくさいくさで過ごした。

28歳のとき、マントヴァ郊外における神聖ローマ帝国との戦いで戦死。

しかしジョヴァンニの息子が、のち、初代トスカーナ大公コジモ1世となり、結果的に、ジョヴァンニはメディチ家系譜のかなめの人物となった。

※ 肖像はブロンツィーノ作

→ 映画「メディチ家のジョヴァンニ」の背景
→ サン・ロレンツォ広場のジョヴァンニ彫像 (頭のうえに鳩がとまってる♪)


初代トスカーナ大公コジモ1世
Cosimo I de Medici (1519-74)

Cosimo I de Medici黒隊ジョヴァンニの息子。メディチ家中興の祖。

ナポリ副王の次女エレオノーラ・ディ・トレドを見初める。

いったんは長女を勧めらるものの「おねがいだからあの美しいエレオノーラ」とねばって結婚した。

オシドリ夫婦。子だくさんの11人。

→ ボクの祖母はカテリーナ・スフォルツァ
→ エレオノーラ・ディ・トレド

Eleonora di Toledo, 1522-1562 いっしょに描かれている愛息子ジョヴァンニは18歳で死亡。(ブロンツィーノ作・ウフィツィ美術館)


カトリーヌ・ド・メディシス
Catherine de Medicis (1519-89)

Catherine de Medicisウルビーノ公ロレンツォの娘。生まれてすぐに父母を失い孤児として育つ。

のちフランス国王となるアンリ2世と結婚し、メディチ家初のフランス王妃となった。

フランス人と結婚したのでフランス語読みのカトリーヌ・ド・メディシスは、ヴァロワ朝最後の3人の王、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母。

カトリーヌがシャルル9世摂政時には、新旧教徒がぶつかりあったサン・バルテルミの虐殺(1572年)があった。 

メディチ家直系では、コジモ1世の孫娘マリー・ド・メディシス(1575-1642)がまたフランス国王アンリ4世妃となっている。

※ 肖像: Muse'e Carnavalet, Paris

→ ハノーバーの真珠はメディチの真珠


トスカーナ大公フランチェスコ1世と妻ビアンカ・カペッロ
Francesco I (1541-87), Bianca Cappello (1548-87)

メディチ家フランチェスコ1世 ビアンカ・カペッロ

フランチェスコ1世は、トスカーナ大公コジモ1世の子。

最初の妻はオーストリア・ハプスブルグ家ヨハンナで、8人のこどもをもうけた。

そのうちのひとりが、フランス国王アンリ4世妃となるマリー・ド・メディシス(Marie de Medicis 1573-1642)。

マリー・ド・メディシスは、ルイ13世の母なので、フランチェスコ1世は実質、ルイ13世の祖父であり、太陽王ルイ14世の曾祖父、だ。

もうここいらになると、メディチ家は完全にフランス王家と合体してますね。

ヨハンナが30歳で死ぬと、フランチェスコ1世はすぐ、ヴェネツィアの名家バルトロメオ家のお嬢ビアンカと一緒になった。(つ〜か、すでにつき合っていたので、ヨハンナの死因についても悪い噂がある。)

さらに事件!

1587年10月、メディチ家での宴のあと、フランチェスコ1世は19日、ビアンカは20日に急死する。

だれが考えたって変死だが、マラリアじゃないかとか・・・証拠がないまま迷宮入りしていた。

ところが、墓(メディチ家別荘があるポッジョ・ディ・カイアーノ)からでてきた臓器保存用壷から検出された成分によって毒殺であったことが明らかにされ、400年以上経った今日、捜査は急展開。


フェルディナンド1世
Ferdinando I (1549-1609)

フェルディナンド1世はトスカーナ大公コジモ1世の子で、フランチェスコ1世の弟。兄夫婦の同時変死に歴史的嫌疑をかけられてきた。

#1 毒殺の舞台と考えられるメディチ家の宴に同席していた。
#2 14歳から枢機卿だが、兄貴が死ねばトスカーナ大公だ。
#3 ビアンカをヘイトしていた。(ビアンカはメディチ家の墓には葬られなかった。)

コイツ、とんでもないヤツかとおもうと、それなりの考えを持ち、かなり「善政」している。

トスカーナ大公となってからのフェルディナンド1世は、姪っ子(いちおう)マリー・ド・メディシスの夫フランス国王アンリ4世にたびたび手を差し延べ、マリー・ド・メディシスの母で兄の最初の嫁ヨハンナの実家ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国にも協力した。

スペインのトスカーナ支配を断ち切り、司法制度を徹底させ、さまざまな新事業で経済成長をはかり、メディチ銀行をフルにつかって世界戦略を推し進めた。

外交もなかなかシタタカ。外国人亡命者を心よく受け入れた。ちなみにリヴォルノは、1492年にスペインから追放されたユダヤ人の避難所となっていた。(モディリアーニの故郷じゃないか。)

ローマのヴィッラ・メディチを作ったのもこのひと。

う〜〜〜ん、ひとそれぞれ置かれた時代状況なり環境なり違うからな。

兄フランチェスコ1世は、ウフィツィに科学コーナー作った錬金術オタクだったそうだし。


アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ
Anna Maria Luisa de Medici (1667-1743)

Anna Maria Luisa de Medici大公ジャン・ガストーネ(Gian Gastone de Medici 1671-1737)が1737年に死去すると、ガストーネには世継ぎがなかったので、メディチ家によるフィレンツェの統治はおわった。

ジャン・ガストーネの姉アンナ・マリーア・ルイーザがメディチ家さいごの当主となる。

さらにこの女性(ひと)の一言で、メディチ家所蔵美術作品がそれからずっと、フィレンツェに残った。さもなければ、いまごろは、上野はないだろうけど、ウィーンかベルリンかニューヨークか・・・きっとバラバラになっていたはず。


(2002.08.17.)(2004.11.15. 見回り)(2007.01.23. フェルディナンドI追加)(2016.04.19 見回り)

かんれんファイル

■ メディチ家ゆかりのモニュメント

絵画 ロシア イタリア