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ポルトガルのコレクションでポップ・アート展

展示会チラシ

ポルトガルのベラルド美術館のコレクションで、アメリカのポップ・アートだけでなく、ヨーロッパのポップ・アートもみれる!

イタリアのアダミやロテッラ、スペインやポルトガルのアレアル、カルヴェ、パローロもポップアート?

アメリカン・ポップとヨーロピアン・ポップのちがいをみてみるのもおもしろいです。

宣伝ポスターひとつとってもそう。ヨーロピアン・ポップには、やはりどこか美術の伝統がある。アメリカン・ポップは、暴力的なくらい直接的。

そもそも、ポップってなんだろう?!

ポップアートがポップアートとしての特徴を際立たせたのは、なによりも、、近代産業が成長し、大量生産が可能になり、宣伝広告のたぐいが生活になかにあふれ、だれもがおなじものを買えるようになった大衆消費文明の現代においてだった。

ありとあらゆるテクノロジーの恩恵を受け、安い大量生産品でニーズをまかない、ゴミが街に溢れる時代に、きれいきれいな街並みや貴族的な生活を描いてたって、疲れるじゃん。

だれにでも理解できる共通のイメージをつかった宣伝広告などは、ゴッホのヒマワリよりもゴーギャンのタヒチのおんなたちよりも、日常生活でじっさいに目にふれるものであり、また欲望の具体的な対象にちがいなかった。

そういう現実にアーティストは敏感に反応し、有名女優、パスタやソースの宣伝、洗濯機や冷蔵庫やバイクや自動車、うす汚れたガソリンスタンドなどを、そのままズバリ、キャンバスにぶつけた。

それも、庶民が見ているようにフラットに、単純平たんに、描いた。

そういうスピリットはいつの時代にもあった。ジョットやマンテーニャは、ビザンチン風の聖人たちにかえて身の回りのひとたちを描き込んだし、カラヴァッジョはにいたっては、聖書を、まるごと庶民の姿で置き換えた。

ほんとうはみんなが見ている現実を、みんなが見ているように描いた。それが、ポップではない?

(2005.01.01.)(2006.12.15, 見回り)

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