EKAKINOKI

ボッティのせんせはタダモンじゃない

フィリッポ・リッピ
Fra Filippo Lippi 1406?-69

Filippo Lippi右はフィレンツェのサン・ロレンツォ教会(Basilica di San Lorenzo)にあるリッピ作『受胎告知(1442)』の部分。リッピはボッティチェリのお師匠さんなんだけど・・・

リッピのほうが絵としてはおもしろいかなぁ、、ちょい描きすぎるとこがあるかもしれない、、、一瞬の表情をとらえるのはボッティチェリがうまい、、、な〜んてね。

ボッティチェリは、1800年代後半、ラファエル前派がらみで再評価された美術家で、歴史的にみると、フィリッポ・リッピのほうがずっと有名だった。(作品の評価なんて、その時代その時代でコロコロ変わりますネ!)

さてフィリッポ・リッピ・・・このひとはルネサンス時代の画家としても有名だけど、それとおなじくらい美術史艶聞に顔を出す「女好き」、、でした〜。 (生まれてすぐに母親を亡くした、ってのもカンケイある、、?)

2才のときに父親が死んで孤児になり、叔母にひきとられ、8才のとき教会の僧院にあずけられました。運命!その教会がサンタ・マリア・デル・カルミネ教会で、教会のブランカッチ礼拝堂には、マザッチョ(1401-28)とマゾリーノ(1383-1440)が描いたフレスコ画があった。(このふたりがリッピの目の前で描いていたという説もあります。)

17才のとき、若いリッピは僧衣をかなぐり捨て、アドリア海の港町アンコーナに行きます。リッピは仲間たちと船で海上に乗り出し、なんとイスラム教徒につかまってしまうのです。18ヶ月間の奴隷生活!ところが、リッピが描いた絵のウマサにおどろいたイスラム教徒たちは、「オォ〜、ミラクル(奇跡)!!」・・・リッピは奇跡的に生還することができました。

そののちナポリを行ったりフィレンツェに舞い戻ったり・・・かなり血が熱かったんだね・・・24才のころには、すでにいっぱしの画家として名を馳せていました。メディチ家のコジモがリッピを重宝しています。

Filippo Lippiしかしリッピが情熱を傾けたのは絵だけではなかった。やめられないやめられないがもうひとつ・・・女性。

雇い主のコジモ・デ・メディチは、リッピがきちんと仕事をしてくれないので、一室に閉じ込めて鍵をかけたりしてます。でも・・・リッピはシーツをつなぎ合わせ抜け出したり・・・けっきょくさいごはコジモも諦めて、リッピがしたいようにさせておいたって、、!

プラート(フィレンツェ近郊の町)の大聖堂壁画を委託され、リッピが工房をプラートに移した4年後の1456年、リッピはそこで女子修道院司祭に任じられています。

なんだかあやしいなぁ〜!女好きのリッピが女子修道院司祭??はなしができすぎてる・・・じぶんから「司祭にしてくんない?」とか言ったんじゃない?裏で手を廻したナ。

修道女ルクレツィア・ブーティを『聖母像』のモデルにすると、案の定(!)、このふたりはできてしまった。さすがに騒がれました。リッピ50才、ルクレツィア23才。いえ年齢ではなく、リッピは僧職の身です!リッピも、、、このときはさすがに「ヤバイ・・」と感じたのか、、女子修道院からルクレツィアを強奪!

スッタモンダスッタモンダがあったのち、コジモがあいだにはいって教皇の恩赦を得、1461年、ルクレツィアとリッピは目出度く(?)結婚。(なにはともあれメディチ家がついてなかったら、とっくに『破戒僧』のレッテルはられてたね。。)

ふたりの子供が生まれ、そのうち1457年に生まれた男の子が、こどものころから父親について仕事をしていたフィリッピーノ・リッピです。

(2002.09.02. 見直し)(2004.03.22. 見直し)

※ Fra Filippo Lippi:「Fra」は「frate(修道士)」

※ ファイル中の画像:(下)「聖母の戴冠」部分 1441-44年 テンペラ・木板 ウフィッツィ美術館 で自画像とされてます。このほかウフィッツィ美術館にはルクレツィアとフィリピーノをモデルにしたとされる傑作「聖母子と二天使」(1460年)があるよ。

フィリッポ・リッピ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/lippi/..

かんれんファイル

■ 比べて見るリッピとボッティチェリ(Photos)
■ ボッティチェリ
■ フィリッピーノ・リッピ

ART INVESTMENT RUSSIA SOVIET ITALY JAPAN