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パルマのパルミジャニーノ

Girolamo Francesco Maria Mazzola, il Parmigianino 1503 Parma - 1540 Cremona

パルマには、コレッジョとならんで、パルミジャニーノがいた。

あの首長(くびなが)の女性を描いたアーティスト、そしてマニエリスム代表選手のひとりだ。

パルマ出身で、華奢で優しそうなひとがらから、パルミジャニーノと呼ばれる。

パルミジャニーノは、伯父から絵の手ほどきを受けた。おなじパルマの先輩コレッジョの仕事は目にやきついていたにちがいない。


1524年、ローマへ。ローマではラファエッロを学び、のちのマニエリスム画家たち、ペリーニ・デル・ヴァーガ、ロッソ・フィオレンティーノらといっしょに仕事をしている。

おしなべて早熟。

1527年のローマ略奪後ボローニャへ移動、1531年ボローニャからパルマへ戻る。パルマでは、ヴァザーリやジュリオ・ロマーノなどと交流があった。

ローマでもそうだったが、つねに一流の画家たちがいるところにいる。


パルミジャニーノの特徴がより顕著にみられるのが、パルマに戻ってからだ。

パルミジャーノ作「トルコ奴隷」, Galleria nazionale di Parma

パルミジャニーノが1500年代を代表する画家のひとりであることにだれも異論はあるまい。

しかし、その画業の偉大さに比して、パルミジャニーノは、ほかのマエストロたちよりいいおもいをしていない。

私生活では、つねに、なにかから逃げていたようなふしもある。

ヴァザーリは、パルミジャニーノと交流があったが、「パルミジャニーノは錬金術にはまっていた」という。

むろんそれだけではない。家族の問題や、私生活の問題がいろいろあったみたいだ。

まだ30代だ。無理もない。さいごは、マラリアによる高熱で床に伏したのち逝った。

(2001.07.18)(2002.03.20. 見直し)(2002.08.27. 見直し)(2004.11.18. 見回り)

かんれんファイル

パルマのコレッジョ
パルマ公国とマリー・ルイーズ
マニエリスムってなに?
マニエリスムの画家たち(Photo Gallery)

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