EKAKINOKI

ミケランジェロ年譜

Michelangelo Buonarroti
1475 Caprese (Arezzo) - 1564 Roma

1475年

おぎゃ〜 〜 〜

1488年

ドメニコ・ギルランダイオに弟子入り!

(Domenico Ghirlandaio:1449-94)

→ ギルランダイオ作品集

ミケランジェロは、すでにかなりできるヤツだった。

1490−92年

メディチ家のイル・マニフィコに気に入られて・・

サン・マルコ修道院の庭で牧神ファウヌス像を作っていた少年をロレンツォ・イル・マニフィコが見掛けた。「老人だろ?そんなに歯がそろってるわけないとおもうけど。」少年の才能を見抜いたロレンツォがとばしたジョークに、歯抜けファウヌスを作ってすばやく答えたミケランジェロを、ロレンツォはメディチ家に住まわせ、息子たちと一緒に教育することにした。のちの教皇レオ10世(ロレンツォの次男)、クレメンス7世(ロレンツォの甥)は、だから幼なじみ。

→ メディチ家のひとびと

マザッチョの模写なんかもしていたよ

ブランカッチ礼拝堂で。みんなやっていたんだろうけど、マザッチョはミケランジェロにとってもお手本だったんだね。(現在ここにあります→ Graphische Sammlungen , Munchen/Albertina , Wien)

1498〜1520年代

数々の作品

『ピエタ』・・・ヴァチカン、サン・ピエトロ寺院バジリカ。

『ダヴィデ』・・・もともとは、ほかの彫刻家の手に負えず36年間放置されていた巨大大理石だった!(1504年に完成すると政庁前広場に設置→今ほんものはフィレンツェ・アッカデミア美術館。)

『ユリウス2世の墓計画』のための『4人の奴隷』は、フィレンツェ・アッカデミア美術館。『モーゼ』(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)

1506年

ボスフォラス海峡にかける橋

を作ってくれと、オスマン=トルコのスルタンに頼まれた。行ってたら人生変わってたよなー。

1508−12年

システィーナ礼拝堂ヅメ

チャールトン・ヘストン演じるアメリカ映画『ミケランジェロ』は参考にはなるけど、ベンハーがそのままミケランジェロになったみたいで〜、、そもそもミケランジェロは中肉中背で、じぶんの容姿にすごいコンプレックスをもってたんだってさ〜

藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」によると・・・ミケランジェロはこのとき、ユリウス2世霊廟にすでに着手していた。ところが、あまりに壮大なミケランジェロの計画に、サン・ピエトロ寺院建築を請け負っていたブラマンテがあわてる。資金をそっちにもっていかれちゃこまるとおもったらしい。で、ブラマンテ、「システィーナでもやらせとけば〜」と教皇に勧めた。な〜るほど、、ミケランジェロがラファエロ(ブラマンテの子分)のことをよくおもわなかったのも、坊主憎けりゃ袈裟までもか、、、

→ 華麗なる激情(映画)
→ ミケランジェロさんこう本

セバスティアーノ・デル・ピオンボ

デル・ピオンボとこの頃から仕事の協力関係あり。セバスティアーノは、ふとった女性が大好き。ティツィアーノ、ジョルジョーネとも一緒に仕事をしたことがあります。色のセバスティアーノ、デッサンのミケランジェロ・・どうだまいったか、ラファエッロ。

→ セバスティアーノ・デル・ピオンボ

1513年

20才のポントルモをベタ誉め

→ ポントルモ

ボローニャ女性を召使いに雇う

・・?5年前にボローニャ女性に惚れたんだったよね・・完全な " 左きき " というわけではなかったのね。

レオナルド・ブオナローティが生まれました。

のちにミケランジェロが寵愛し、あとを託した(相続したってこと)甥っ子です。レオナルド・ブオナローティは『ミケランジェロ.ブオナローティ・イル・ジョーヴァネ(Michelangelo Buonarroti il Giovane)←若きミケランジェロ』とも称されています(通称)。

レオナルドの息子が同じく『ミケランジェロ.ブオナローティ・イル・ジョーヴァネ』だったみたいで、このひとはミケランジェロに関する蒐集(情報集め)にことに情熱をもっていました。現在の『カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)』所蔵品の元です。

そのなかには・・ミケランジェロが作った詩、父親や甥っ子レオナルドに宛てた手紙などもあります。チーズを6っ個、レオナルドが送ってくれたときにミケランジェロが書いたお礼の手紙・・

「チーズありがとう・・すごくおいしかったよー。無事息災のようでなによりです。ずっと返事できなくてごめんな。」

1519年

あっちゃこっちゃで不動産投資

をしているようですね、ミケランジェロおじさん。「お金がナイナイ。。」と生涯こぼしていたのかとおもったら、「お金をきちんと払ってクレナイクレナイ。。(←シビアな事業家)」のまちがいだったみたいです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ逝去

→ フィレンツェ大議事堂の壁画制作を依頼されたダ・ヴィンチとミケランジェロ

1521年

フランス病

(↑なんのことか分かるよね・・)にかかった。どーしよう。

1526年

ロッソ・フィオレンティーノ

からミケランジェロ崇拝の熱い手紙をもらいました。

→ ロッソ・フィオレンティーノとヴォルテッラ

1528年

弟のブオナロート

がペストで死ぬ。

1534年

システィーナ礼拝堂の『最後の審判』

を、クレメンス7世(在位1523-34年)がミケランジェロに依頼します。クレメンス7世は、1478年にフィレンツェの大聖堂でパッツィ家一味に刺殺されたジュリアーノ(ロレンツォ・イル・マニフィコの弟)の息子。そのあとすぐにクレメンス7世は亡くなり、教皇パウルス3世が遺志を引き継ぎました。

→ メディチ家のひとびと

1537年

セバスティアーノ・デル・ピオンボと喧嘩

ミケランジェロいわく、「油彩なんて女の仕事だ!(←オレはフレスコしかやらん!)」

1540年代

ヴァザーリ(1511-74)

がちょこちょこ顔を出しはじめます。ヴァザーリは、ミケランジェロを崇拝していました。

→ ヴァザーリの『美術家の生涯』どこまでほんと?

1545−46年

ティツィアーノとローマで喧嘩

→ ティツィアーノVsミケランジェロ

1556年

スフォニスバ・アングイッソラと知り合う

デッサンをプレゼントしました。このデッサンをもとにスフォニスバが描いた『ピエタ(慈悲)』は、いまミラノのブレーラ美術館にあります。

→ スフォニスバ・アングイッソラ

未完のピエタ(慈悲)/1552-64年/Castello Sforzesco, Milano

1564年

ミケランジェロ逝去

→ ミケランジェロをバサッ

そののち

アルテミジア・ジェンティレスキ

は、ローマでのレイプ騒ぎのあとフィレンツェの『カーサ・ブオナローティ』で世話になりました(1613年〜)。ミケランジェロの甥レオナルドの息子(1568-1647)が面倒をみたのでしょう。

→ アルテミジア・ジェンティレスキの謎

つけ足し

ミケランジェロは、ずいぶんといろいろな女性をアシスタントに雇っていたのだなあ・・。フィレンツェのドゥオーモ円蓋(クーポラ)を作ったブルネレスキは尊敬していたけど、ブラマンテは嫌いだったって。じぶんと性格が似ていたから、らしい・・。

→ ブラマンテはダ・ヴィンチのミラノ時代のおともだち

→ ブルネレスキ



ミケランジェロ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/../mich...

(2003.01.12)

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