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スフォルツァ家が外国に攻められたワケ

ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ


カステッロ・スフォルツェスコで撮影(2004.02.26.)。城の裏門からセンピオーネ公園にあるアーチが見える。

パヴィア・ミラノの支配者ヴィスコンティ家に、残虐で名をはせた当主がいた。

ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ。

ところがこの男、、ミラノのドゥオーモ、パヴィアの僧院をも建立した、慈悲深〜い男でもある。

ジャン・ガレアッツォは、愛娘ヴァレンティーナをフランス王ルイ12世の祖父ヴァロワ・オルレアン公と結婚させる。

これこそが、その後フランスやスペインにミラノがチャチを入れられる原因となった。

男子継承者がなかったヴィスコンティ家の最後の当主フィリッポ・マリアは、忠実な部下だった農民出身の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァをクレモナの領主にし、じぶんの娘と結婚させる。

1477年、フィリッポ・マリア・ヴィスコンティが死ぬと、ミラノはいったん共和国になったが、すぐにフランチェスコ・スフォルツァを統治者として迎えいれた。

Castello Sforzesco

ミラノ・ドゥオーモとスフォルツェスコ城をつなぐヴィア・ダンテから。

ところが「異議アリ!ワレこそがミラノ公国の正当な継承者だ。」と、フランス国王ルイ12世(1462-1515)が割って来た。

ルイ12世の祖母が、ジャン・ガレアッツォの愛娘ヴァレンティーナ・ヴィスコンティだ。

「農民出身のスフォルツァがなんで。」というのもあるだろうが、所詮野心と欲のぶつかり合い。イタリアでも、フランス、神聖ローマ帝国ハプスブルグ家、スペイン、教皇庁、イタリア諸侯がせめぎあっていた。

20年間のやったやられたの繰り返しののち、スフォルツァ家当主ルドヴィーコ・イル・モロ(Ludovico il Moro 1452-1508)は、1499年、とうとうフランス国王ルイ12世に捕らえられてしまった!

イル・モロの庇護下にあったレオナルド・ダ・ヴィンチとブラマンテはミラノから退散。ブラマンテはローマへ、レオナルドはフィレンツェに戻った。

そのあとミラノは、1535年から1713年までスペインに支配され、そのあとオーストリア(-1796)、ナポレオン、そして再びオーストリア(1815-59)。

イタリア統一が1861年だから、ミラノは、外国勢に支配されっぱなしだった。

(2001.07.20.)(2002.08.18. 見直し)(2004.02.27. 見直し・画像入れ替え)(2004.11.04. 「スフォルツァ家の由来」から分割)

かんれんファイル

■ スフォルツァ家の由来
■ ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ
■ ブラマンテとレオナルド・ダ・ヴィンチはおともだち(展)
■ 戦乱とルネサンス

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