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戦乱とルネサンス

Paolo Uccello "Battle of San Romano"

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・・・ルネサンスのきら星が燦燦と輝いていたころ、イタリアはさぞかし平和と繁栄と?

とんでもな〜い!戦国時代の真っ只中よ!

それもイタリア半島内のやったやられただけじゃない。フランス、スペイン、神聖ローマ帝国までが参上。諸公、教皇いりみだれ、迎え撃ったり同盟を結んだり、ひっちゃかめっちゃか。

1494-95年、フランス王シャルル8世(在位1483〜1498年)は、ナポリの王位継承権を主張してイタリア半島を縦断。そのとき、フィレンツェを通り抜けようとしたシャルル8世は、フィレンツェ市に莫大な戦費を要求。??

「払わね?じゃ、攻撃すんけど。」ということです。

かのロレンツォ・イル・マニフィコは、1492年に逝去してもういません。

フィレンツェ市民は無能なメディチ家統治者を町から追い出し、やがて怪僧サヴォナローラ(〜1498年)の登場です。


Paolo Uccello "Battle of San Romano"

シャルル8世のあとはルイ12世(在位1498〜1515年)が、1499年から1513年までイタリアをいびり続けます。

たとえば、1499年、ルイ12世は、ミラノ・スフォルツァ家当主ルドヴィーコ・イル・モロ(1452-1508)を幽閉しました。

庇護下にいたレオナルド・ダ・ヴィンチとブラマンテもビックリ。ミラノから退散します。

ミラノはそれから、スペインをはじめとする外国人支配の歴史に埋もれます。

18世紀ぐらいまで、「イタリアはスペインの植民地かよ?!」って現実がじっさいにあったのです。

そんな世の中、チェーザレ・ボルジア(1475-1507)は天下統一をたくらみ、マキャベッリ(1469-1527)は生き延びるための術を政治哲学にまでたかめました。

* チェーザレ・ボルジアは教皇アレクサンドル6世(在位1492〜1503)の庶子。


ルイ12世のあとはフランソワ1世(在位1515〜47)。

そして、フランソワ1世の野望を打ち砕こうとするのが、神聖ローマ帝国カール5世(1500-58)。

フランソワ1世は、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招聘した王です。

でも、ひとの土地で争うのやめてよ、ですよね。

のちのフィレンツェ大公の父、黒旗隊長ジョヴァンニ(1498-1526)がこのカール5世の軍隊とやり合って戦死しました。

「神聖ローマ帝国 VS フランソワ1世+教皇」の構図です。やばいでしょ?

そう、1527年、神聖ローマ帝国とスペインの連合軍はローマになだれ込み、世に有名なサッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)です。。

たくさんのアーティストがローマから逃げ出しました。ローマはしょぼったものの、いっぽうで、ルネサンス文化は各地につたわります。

ふぅ〜、いそがしいなんてもんじゃないでしょ?

(2001.07.20.)(2002.08.17. 見直し)(2004.11.12. 見回り)

かんれんファイル

中世教皇領は火薬庫
中世のイタリア半島縦断路
映画「メディチ家のジョヴァンニ」の背景
スフォルツァ家とミラノの命運
チェーザレ・ボルジア&レオナルド・ダ・ヴィンチ

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