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ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

Federico da Montefeltro, 1422-82

ウルビーノは、ルネサンス時代を象徴する都市のひとつでした。

Federico Montefeltro

フェデリーコと息子グイドバルド

当時、ウルビーノの統治者は、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。

40年(1444-82年)!ちかくつづいたこの男の治世に、ウルビーノは繁栄をきわめました。

Palazzo Ducale

モンテフェルトロ公宮殿正面の一部


フェデリーコは庶子(正妻以外の子)としてグッビオで生まれました。

彼が11才のとき、父親が二度目の結婚をし、それを機に、フェデリーコははじめて父親の本拠地ウルビーノに来ることを許されました。正式に、ダ・モンテフェルトロ家の跡継ぎのひとりとして認知されたのです。

しかし、フェデリーコはすぐ人質としてヴェネツィアにつかわされました。

11才のフェデリーコは、この水の都で15ヶ月間を過ごし、大きな感銘を受けています。

それから、マントヴァのゴンザーガ家で2年間を過ごし、戦闘教育などを受けました。

14歳で故郷ウルビーノに戻り、16才で傭兵隊長です。

ともかく、なにからなにまで超スピード。しかし、そういう要望に答えたフェデリーコもすごい。


21歳のとき、父親が亡くなりました。

嫡子(正妻の子)がいったんはダ・モンテフェルトロ家を継ぎましたが、その1年後、フェデリーコは貴族・民衆の支持をとりつけ、嫡子にかわってダ・モンテフェルトロ家当主&ウルビーノ公となります。


フェデリーコは、生来、ネアカな男だったような気がします。

苦労もしているので、人情の機微をもとらえることができた。

民衆の支持もとりつけ、領内の治安も良かった。

立派な図書館をつくり、多くの留学生が訪れました。

宮廷には、ブラマンテ、パオロ・ウチェッロ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、ピエーロ・デッラ・フランチェスカ、さらにはフランドルの画家たち。

ラファエッロの父親ジョヴァンニ・サンティもフェデリーコの宮廷画家であり文人だったので、ラファエッロは、ここウルビーノで生まれています。

いっぽうで、ミラノ、フィレンツェ、ナポリとは政治的友好関係を維持しています。


1460年、バッティスタ・スフォルツァと正式に結婚。こどもにも恵まれました。

1472年、ヴォルテッラ蜂起(染色につかう明礬鉱脈をめぐっての利権争い)の際には、フィレンツェ・メディチ家ロレンツォ・イル・マニフィコ政権安定のために大きく寄与しました。


1482年、フェデリーコ逝去。


ところで、フェデリーコの肖像がみな横顔なのはなぜだか知っていますか?

馬上試合で片目を損傷、視力もなかったといいます。

(2001.07.30.)(2002.09.05. 見直し)(2005.01.05. 見回り)

かんれんファイル

ウルビーノのフェデリーコとバッティスタ
ウルビーノの地政学
中世のイタリア半島縦断路
中世教皇領は火薬庫
戦乱とルネサンス
ウルビーノのかんたんマップ

かんれんサイト

ダ・モンテフェルトロ宮殿(写真が豊富:イタ語)(Move About Italy)宮殿訪問の際には、厩(うまや)と台所を見のがさないように、だそうです。
http://www.moveaboutitaly.com/marche/urbino..

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