EKAKINOKI

落書きへのふたつの処方箋


欧米でも日本でも、「グラフィティ=落書き」はおおむね禁止か許可制だ。

でもヨーロッパなんかは比較的寛容だとおもう。

というか、なにからなにまで取り締まるとはかぎらない。つまり、目をつぶっている部分がある。

グラフィティの原義は落書きだが、日常生活のグラフィティに相当するストリート・ミュージシャン、大道芸人は、大勢存在している。

かれらは警察がくるといちおう逃げるけれど、それが町の景色であり、またかれらはひとびとの心をあたためてくれる。


グラフィティに反対というひとたちの見解はだいたい想像できる。

だからここでは、わたしたちの生活のなかにグラフィティ=落書きを共存させることはできないかを考えてみたい。

Photos by mashiro in Paris

まず、なんで落書きにこだわるかというと、落書きは絵だよ、アートだよ、というおもいがあるから。

そんなむずかしいことを言おうとしているんじゃない。

壁の持ち主がだれかとか、違法だとか、はさておいてのはなし。

なぜ、コンクリの壁がよくて、絵はダメなのか、が分からない。


絵とかアートをあえて否定するひとはいないとおもう。

でも、反対派のひとたちは、おそらく「落書きが醜い」とおもっているはずだ。

なにを美しいと感じるかは、ひとそれぞれだ。

ある種のアートが気に食わないなら、見なきゃいいし、触れなければいい。

だけど、落書きは公共の場に描かれている。毎日そこを通るたびに目にはいってくる。

Photos by mashiro in Paris

公共の場にもアートはある。彫像だったり、壁画だったりする。

それに文句を言うひとは、よっぽどのことがないかぎり、いない。

勝手に造られたものではなく、市町村なりに許可されているからだ。

じゃあ、落書きも許可制にするか?


「ここは描いていいよ」と言って、ほんまもんの落書き野郎たちがそこに描きに来るだろうか?

あるいは、そこに描くかわりに、禁止されたほかの場所には描かなくなるだろうか?

答えは聞くまでもないとおもう。


許可制にしたら、もはや落書きではない。

キース・ハリングもバスキアも、いまでは一流のアーティストとみなされているひとたちも、かつては地下鉄に落書きしていた。

地下鉄の落書きは、みつかったらしょっぴかれるし、他人の落書きのうえにじゃんじゃん上書きして、だれが描いたかわかるシンボルみたいのも描き込まれてたり、おたがいに対抗意識をもっていたりする。

イヌのおしっこじゃないけれど、かれらにとっては、そこに生存がかかっているのだ。そういうひとたちは、そうかんたんにアドレナリンを放棄しない。

所詮相いれないふたつの世界なのだ。


できることがふたつある。

#1: いままで通り、ここはやめてくれ、という場所を個別に取り締まる。永遠にイタチごっこ。(しかたがない。落書きは永遠になくならないのだから。)

#2: 醜いかそうでないか、みなが決める。醜くければ、早速ほかの落書きを許可する。OKなら 、たとえば一週間「展示 」を許可する。その後、またほかの者が上書きしてヨシ。

(2004.01.16)

かんれんファイル

■ キース・ヘリング
■ ロシアのこどもの落書き

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