EKAKINOKI

作家が絵筆をとるまで

Sergio Perosino

セルジョ・ペロジーノ自伝より訳

Sergio Perosino

まだ7才か8才のこどものころ、 わたしの家の入り口には『セルジョ 画家』とかかれた一枚の表札が掛かっていた。このことで、無邪気な揶揄をこめて近所の老人たちにいろいろと言われたのをおぼえている。

表札は、わたしがここに住んでいる、ということをわからせるようにするものだったのか、 商売上の効果をねらっていたのか、あるいは、たんなるからいばりだったのかもしれない。老人たちばかりではなく、 両親にも、近所に住んでいるすべてのひとたちにもからかわれた。

わたしの家があったピエモンテ地方のひとたちは、働くことを生きがいにしている。夢をみることもなく、蓄財と人生の保証というはっきりとした目標のためにただひたすら働く。 わたしのような、『誇大妄想』にかられた自己表現の仕方が受け入れられるはずもなかった。 家族の理解のしかたがそののちすこしずつ変わっていったとしても、やはりわたしの考え方が受け入れられていた、とはおもわれない。 いずれにしても、家庭内における自己表現にすぎず、そのかぎりでは十分に発散できていたかもしれない。

あまり明るくはなかったかもしれない人生を救ったのは、 ほかならぬ戦争だった。わたしはそこで、生まれた環境も違えば、生きている現実も異なるさまざまなひとたちの考え方に触れることになった。 わたしの性格はそこで形成されたと言える。プラグマティックな(現実的な)考え方、相対的にものを考える習慣。 とくに『理想』を抱き続けることへの確信は、つねにわたしを支えてきた。 それでも、わたしの『誇大妄想癖』だけは変わらなかった。

自由な時間があると、わたしは狩猟と釣りに没頭した。40才になっても、画家になることなど夢にもおもっていなかった。でも・・結局そこにもどってきた。

Sergio Perosino

冬で猟も釣りもできないある日、 絵の具と筆とパレットを妻がプレゼントしてくれた。このことを、わたしはとても感謝している。

わたしの最初の作品は、むろん静物画だった。アンティチョークとセロリー、それに野菜とフェンネル。 出来はひどいものだった。それからオルコ谷、その谷にある我が家の風景などを描きはじめた。すこしすこしマシになってきた。そんなときNPに出会い、たいへんな交遊がはじまった。

NPは、美術に関しては言うにおよばず、文化的にとても洗練されていた。 しかし彼はたいへんな『ひと嫌い』で、それは今に至るまで変わっていない。秘密めいていて、とてもむずかしい性格の持ち主だ。しかし、 納得がいくまでトコトン作品を追きつめていく情熱的なNPを見ていると、彼の『ひと嫌い』の性格も理解できないでもない。

そんな彼の一途さが、わたしが求めているものと一致したのかもしれない。 彼とわたしは、尽きることなく議論にふけった。わたしの美術に対する見方が肥えていけばいくほど、NPが画家としても彫刻家としてとてもすぐれているのがより定かになっていった。ところがNPは、『考え方』以外のなにもわたしに教えてくれようとはしなかった。

絵画技法?とんでもない。 わたしが未熟さから苦悩の泥沼に落ちていくのを、NPはじっと見守っていた。わたし?みずからが感染しないよう実験に供されていたモルモットだったかもしれない。

(2003.02.02. 点検)

「ブランコ(Altalena)」 80 x 60 cm / 「コンチェルト(Concerto)」 80 x 60 cm

※ ピエモンテは、トリノを首府とするフランス・スイスに接した北イタリアの地方。
※ ペロジーノは『狩猟と釣り』について、 厚さが7、8センチメートルはある2部の大百科を出している。

ペロジーノのファイル

□ 作家が絵筆をとるまで
■ 心に残る印象を描く
■ 最期の出会い

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