EKAKINOKI

ロシア革命、そしてイタリア

Roman Bilinski 1897-1981

ロマン・ビリンスキーは、1897年、オーストリア・ハンガリー帝国(1867〜1918)ガリツィア地方レオポリで生まれている。レオポリは、1939年のロシア・ドイツ協定でロシア領となって現在にいたっている。

ビリンスキーの両親はポーランドの地主で、作家自身の言葉によると、「領地を横切るのに馬に乗って3日はかかる」というぐらい広大な領地を所有していた。父親が建てた温室が屋敷に隣接してあり、そこにあった植物や花を通して自然とのつながりを感じていたそうだ。ビリンスキーはのち、レオポリ、クラコフ、キエフにて絵画・彫刻を学ぶ。

1914年、レオポリはロシア・オーストリア間の戦争に巻き込まれる。ロシア革命の起こった当時、ビリンスキーはキエフ芸術大学で学んでおり、おりしも、聖ソフィア寺院の壁画を完成させていた。トロツキーをはじめとする革命政府指導者もこのキエフ芸大に姿をあらわしている。革命はレオポリをも襲った。

ビリンスキーの父親が小作人に殺され、ビリンスキー一家は離散のうきめにあう。ビリンスキーはキエフに戻り、1920年、学友のニーナ・アントモノーヴナと結婚。レオポリを襲った戦争の惨禍から逃れるため、イスラム世界の古都コンスタンティノープル行きを決心。ビリンスキーはロバート米仏友好大学にて美術を教授した。トルコを旅行し見聞を深める一方で、民俗衣装を研究。

ビリンスキーは、ここでまずアーティストとして社会的に認められるようになる。ケマル・パシャ・アタチュルクの指名で、イスラム文化美術館の創設に奔走。ヨーロッパからは遠く離れた世界の経験が、のちにトルコの自然をはじめ、そこで働く百姓の生活を描写したさまざまな作品を生む。トルコ滞在期間中に、妻との関係が冷え、離婚。ビリンスキーはあらたに画家のクレール・ドュリエと結婚。

ユーゴスラビアでピエトロ王宮のフレスコ画制作にあたっていたふたりを、今度は第二次世界大戦が襲う。いったんは捕虜となり、追放の目にあいかけるが、かつてこの地の統治者であった叔父レオ・ビリンスキー(※)の甥であったことが幸いして、連合軍とともにトリエステに逃れることが許される。

こうしてビリンスキーはイタリアにたどりつき、ポーランド赤十字軍の統率者として、またのちにはアドリア海のアンダース軍に参加することになる。この期間に、2番目の妻との関係も終った。戦争が終り、カモッリに居をさだめると、1946年、マルチェッラ・コンテと結婚。

「1960年代、ミラノ・ブレーラ通りの屋根裏部屋に住んでいました。その部屋には前にトルコ人画家がすんでいたのです。気が付かないうちにどんどんと作品がふえていきました。20枚ほど水彩画を仕上げると、飛ぶように売れました。いい時期だったのです。あの時期、ミラノのひとたちは、まるで水のなかに飛び込むように、ビリンスキーのありとあらゆる展示会にかけつけ、作品を買い集めていきました。そんなぐあいで、パリ、ジュネーブと、頻繁に展示会が催されました。」(ビリンスキーの妻)

地中海に面したリグーリア地方の町、ボルディゲーラの別荘の庭いじりを愛し、世事・画壇のうごきにまどわされることなく、制作に没頭。1981年3月、心臓発作のため逝去。

※ レオ・ビリンスキーはオーストリア・ハンガリー帝国財政大臣(1908-1914)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治者、大戦後のポーランド財政大臣などを歴任。

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