EKAKINOKI

ありのままを描いたカラヴァッジョ

Caravaggio (Michelangelo Merisi) 1571-1610

Vittorio Sgarbi 評・訳

Caravaggioカラヴァッジョにとっての静物画は、伝統的な文化の『記憶』以上のなにものでもなかった。『ホモ』がまたそうで、昔からあったものを人物像として描いただけで、そこになにか新しい趣向をつけ加える気はさらさらなかった。

カラヴァッジョが描く静物画では、まばゆい『光』に照らされたりんご、ぶどう、いちじく、ざくろの香りと匂いが漂っている。ものの『理想的』な姿ではなく、あるがままの姿がそこにはえがかれている。

モデルを呼んできて、貧乏人たちが行く劇場でつかうようなおおざっぱな衣装をつけさせる。葉っぱの冠、ぶどうのつた、シーツ、横になれるような大きなマットレス。すこし気をきかしたときでもせいぜいぶどう酒の壷、グラス、くだもの少々がつけ加わるぐらいだ。

モデルはどこにでもいる若いやつら。ほっぺたと唇の真っ赤な健康的なヤツもいれば、真っ青な唇に肌の色も黄色がかった病気みたいなヤツもいる。若者の頬ははれぼったく太り気味で、眉ははっきりとしていて目の色は真っ黒だ。

カラヴァッジョは別に『神話』をぶち壊そうとしたのではない。『神話』は現実生活のなかにある。その『神話』を、具体的に表現したかっただけだ。

化粧をほどこされてあまり健康的とは言えない、カラヴァッジョが描いた『ホモ』をみていると、古代ギリシャ美に焦がれ、シチリアの貧しく痛々しい少年のヌードを撮ったフォン・グローデンが想い起こされる。カラヴァッジョは、4世紀もグローデンの写真の先を行っていた。

グローデンは『スポイル』されていたが、カラヴァッジョはただ『ありのまま』を描いただけだ。カラヴァッジョにとって、そういう若者を描くのと、そのうち腐ってしまう果物を描くのと、なんのちがいもなかった。「人間を描くのとおなじぐらい花を描くのにも手間がかかるんだ。」カラヴァッジョ本人が言っている。

カラヴァッジョの静物画は一見完璧すぎるかにみえる。が、しばらくするとそこには、歴史画、宗教画におとらぬ『人間的な表情』が隠れていることに気付く。ミラノ、アンブロジアーノ美術館にある『くだもの籠』がそのよい例だ。

カラヴァッジョが静物画について述べている言葉は、けっして『テクニック』のことではない。静物を前にし、自我を超越し、あるがままの『静物の主張』を読み取ろうとすることのむずかしさなのだ。静物に読み取る現実は、まさに人間に読み取る現実とおなじだ。

そういう意味で、アンブロジアーノ美術館にある『くだもの籠』は、たんなる静物画なのではなく、『近代的なものの考え方』『絵画の歴史におけるコペルニクス的変革』の貴重な証言なのだ。

(2000. 訳)(2002.09.05. 点検)

※ ファイル中の画像: 『くだもの籠をもった若者』1593-94年/画布/Galleria Borghese(ローマ)

※ 原著: "Il Sogno della Pittura (Marsilio)"


カラヴァッジョ作品(Web Gallery of Art)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/ca..

ART INVESTMENT JAPAN RUSSIA ITALY AGENT